マイケル・J・フォックスは、1980年代に世界的なスターとなったカナダ出身の俳優・プロデューサーである。1961年6月9日生まれ。テレビドラマ『ファミリー・タイズ』(1982年~1989年)で若き保守派の高校生アレックス・P・キートンを演じ、一躍人気者となった。その後、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』(1985年)で主人公マーティ・マクフライ役を務め、映画は大ヒット。続編を含むシリーズ3作(1985年~1990年)は世界的な現象となり、フォックスの代名詞ともいえる代表作となった。
1991年、29歳の若さでパーキンソン病と診断されながらも俳優業を継続。シットコム『スピン・シティ』(1996年~2001年)では主演・製作総指揮を務め、ゴールデングローブ賞を受賞するなど高い評価を得た。その後、病気の進行により俳優業を縮小するが、声優やカメオ出演などで活動を続ける一方、パーキンソン病の研究支援に尽力し、2000年に「マイケル・J・フォックス財団」を設立。俳優としての功績とともに、病気と向き合いながら社会に貢献する姿勢も広く評価されている。
マイケル・J・フォックスの経歴
俳優としてのキャリア
マイケル・J・フォックスの俳優キャリアは、1970年代後半のテレビドラマから始まった。1982年、NBCのシットコム『ファミリー・タイズ』でアレックス・P・キートン役を演じ、一躍人気者となる。本作でゴールデングローブ賞とエミー賞を受賞し、若手俳優としての地位を確立した。
1985年、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』で主人公マーティ・マクフライ役を演じ、映画は世界的な大ヒットを記録。続編の『バック・トゥ・ザ・フューチャー PART2』(1989年)、『PART3』(1990年)も成功を収め、フォックスは80年代を代表する映画スターとなった。『摩天楼はバラ色に』(1987年)や『ドク・ハリウッド』(1991年)などの作品でも主演を務め、コメディからヒューマンドラマまで幅広い演技を見せた。
しかし、1991年にパーキンソン病を発症。病気と闘いながらも俳優業を続け、1996年にはシットコム『スピン・シティ』で主演・製作総指揮を務めた。本作で再びゴールデングローブ賞とエミー賞を受賞し、テレビ界での成功も確立した。2000年、病気の進行により主演を降板し、本格的な俳優業から引退を発表。
その後もゲスト出演や声優業を続け、映画『アトランティス 失われた帝国』(2001年)では主人公マイロ・サッチの声を担当。『グッド・ワイフ』(2010年~2016年)では弁護士役で出演し、エミー賞にノミネートされるなど、限られた活動の中でも高い演技力を発揮した。近年はパーキンソン病の啓発活動に注力しながら、カメオ出演やナレーションなどを通じて俳優としての存在感を示し続けている。
製作者としてのキャリア
マイケル・J・フォックスは俳優業に加え、製作者としても活動してきた。1996年から主演を務めたテレビドラマ『スピン・シティ』では、製作総指揮も担当し、シットコムとしての成功に大きく貢献した。本作は批評的にも高く評価され、フォックス自身もゴールデングローブ賞とエミー賞を受賞した。
映画制作にも関与し、1990年代には『ドク・ハリウッド』(1991年)や『摩天楼を夢みて』(1993年)など、自身の主演作の製作にも深く関わった。また、アニメ映画『アトランティス 失われた帝国』(2001年)では主演の声優を務めるとともに、制作プロセスにも関与した。
2000年にパーキンソン病の進行により俳優業の第一線から退くが、その後もテレビドラマやドキュメンタリーの制作に携わる。特に、自身の病との闘いを描いたドキュメンタリー『STILL: マイケル・J・フォックス ストーリー』(2023年)は話題となり、彼の人生と病気への向き合い方を広く伝える作品として高く評価された。
さらに、フォックスは自身の経験を活かし、映像制作を通じた社会貢献活動にも注力。パーキンソン病の啓発を目的としたプロジェクトに関与しながら、俳優・製作者としての影響力を持ち続けている。
受賞歴・代表作
マイケル・J・フォックスは、テレビドラマ『ファミリー・タイズ』(1982年~1989年)でエミー賞を3度受賞し、ゴールデングローブ賞も獲得。その後、『スピン・シティ』(1996年~2001年)で再びエミー賞とゴールデングローブ賞を受賞し、テレビ俳優としての評価を確立した。映画界では、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』(1985年)が大ヒットし、世界的なスターとなった。俳優業だけでなく、2000年にはパーキンソン病の啓発活動を評価され、複数の人道賞も受賞している。
代表作には、SF映画の金字塔である『バック・トゥ・ザ・フューチャー』(1985年)でのマーティ・マクフライ役があり、続編の『PART2』(1989年)、『PART3』(1990年)と合わせてシリーズを象徴する存在となった。『摩天楼はバラ色に』(1987年)ではコメディ演技が評価され、『ドク・ハリウッド』(1991年)では都会の若手医師が地方で成長する姿を演じ、ヒューマンドラマの魅力を見せた。また、シットコム『スピン・シティ』(1996年~2001年)では主演と製作総指揮を務め、テレビ界でも大きな成功を収めた。晩年には、パーキンソン病と向き合いながらも『グッド・ワイフ』(2010年~2016年)などに出演し、演技力を発揮し続けている。