愛と肉体が崩れゆく──科学の夢が悪夢に変わる、異形のホラーSF ---
『ザ・フライ』(The Fly)は、1986年に公開されたアメリカのSFホラー映画である。1958年の映画『ハエ男の恐怖』のリメイク作品であり、監督はボディホラーの名手デヴィッド・クローネンバーグが務めた。主演はジェフ・ゴールドブラム、ジーナ・デイヴィス、ジョン・ゲッツ。物質転送装置(テレポッド)の実験中にハエと融合してしまった科学者の悲劇を描き、壮絶な肉体変異と狂気のドラマが展開される。主人公の身体が徐々に変質していく過程をリアルに表現した特殊メイクと視覚効果は当時としては画期的なレベルに達しており、第59回アカデミー賞でメイクアップ賞を受賞した。さらに、ゴールドブラムの演技も称賛され、彼のキャリアにおいて重要な転機となった作品でもある。
本作は公開と同時に大ヒットを記録。ホラー映画でありながら、愛と喪失をテーマにしたドラマ要素も強く、単なる恐怖映画以上の深みを持つ作品として批評家からも高く評価された。日本では1987年劇場公開され、クローネンバーグ監督の名を広く知らしめるきっかけとなった。
『ザ・フライ』のあらすじ紹介(ネタバレなし)
天才科学者セス・ブランドル(ジェフ・ゴールドブラム)は、物質を瞬時に別の場所へ転送する「テレポッド」と呼ばれる装置の開発に成功する。彼は科学雑誌の記者ヴェロニカ・クエイフ(ジーナ・デイヴィス)と出会い、実験の成果を記事にするよう持ちかける。ヴェロニカは彼の才能に興味を抱くと同時に、次第に恋愛関係へと発展していく。
しかし、テレポッドの実験は完全ではなかった。ある夜、セスは自らを転送装置にかけるが、その際に気づかぬうちに一匹のハエが装置内に紛れ込んでしまう。転送は成功したように見えたが、その直後からセスの身体には異変が起こり始める。驚異的な身体能力の向上に興奮するセスだったが、やがて彼の肉体は変質し、恐るべき変貌を遂げていく。
自らの身体に起こる異常を理解し始めたセスは、ヴェロニカに助けを求めるが、彼女は彼の変化に恐怖し、次第に距離を取るようになる。一方セスの変異は加速度的に進み、人間としての意識さえも失われつつあった。彼は自らの運命を悟りながらも、テレポッドを使って最後の実験を試みようとするが――。
『ザ・フライ』の監督・主要キャスト
- デヴィッド・クローネンバーグ(43)監督
- ジェフ・ゴールドブラム(34)セス・ブランドル
- ジーナ・デイヴィス(30)ヴェロニカ・クエイフ
- ジョン・ゲッツ(40)スタシス・ボランス
- ジョイ・ブーシェル(38)タウニー
- レス・カールソン(53)ボルタンスキー博士
- ジョージ・チュヴァロ(49)マークーシャン
(年齢は映画公開当時のもの)
『ザ・フライ』の評価・レビュー
・みんなでワイワイ | 1.0 ★☆☆☆☆ |
・大切な人と観たい | 2.0 ★★☆☆☆ |
・ひとりでじっくり | 5.0 ★★★★★ |
・変化する身体に注目 | 5.0 ★★★★★ |
・ホラーなのに恋愛ドラマ | 4.0 ★★★★☆ |
ポジティブ評価
『ザ・フライ』は、SFホラー映画の恐怖と深い人間ドラマの両面で高く評価されている。デヴィッド・クローネンバーグ監督は、物質転送という科学的なテーマを軸にしながら、「変化する身体」と「それに伴う精神の崩壊」を丁寧に描き、視聴者にインパクトを与えた。愛と喪失、孤独と自己崩壊といった普遍的なテーマが込められており、ホラー映画の枠を超えた作品として名高い。
主演のジェフ・ゴールドブラムは、科学者としての知的で繊細な一面と、次第に肉体が変異し狂気に取り憑かれていく姿のコントラストを見事に表現している。特に、セスが自らの変化に気づきつつもそれを受け入れようとする過程は、視聴者にとって悲劇的でありながらも目が離せない展開となっている。また、ジーナ・デイヴィス演じるヴェロニカとの関係も、単なる恋愛ではなく、愛する人の崩壊を目の当たりにする痛みが丁寧に描かれている。二人の関係が本作の情感を支えており、ただのモンスター映画ではなく、濃厚なヒューマンドラマとしても成立している点が魅力だ。
そして、本作の最大の特徴は、特殊メイクと視覚効果である。セスの肉体が徐々に変異していく過程は、80年代の映画とは思えないほどのクオリティで描かれており、アカデミー賞メイクアップ賞を受賞したのも納得の仕上がりである。特に、終盤にかけての変異シーンは、観る者に強烈な印象を残し、「ボディホラー」の金字塔として今なお語り継がれている。
また、クローネンバーグ監督は単なる視覚的な恐怖に頼るのではなく、「自己変容と喪失」という哲学的なテーマを重視。セスが次第に「人間であること」を失っていく様子は、単なるモンスター化ではなく、病気や老い、遺伝的な運命といった誰もが避けられない現実を象徴していると解釈することもできる。そのため、本作は観るたびに異なる感情を呼び起こす奥深さを持っている。
ネガティブまたは賛否が分かれる評価要素
1986年の公開作ながら、本作は現代の視点でもシンプルにこわい。恐怖描写は視覚的にも感情的にも強烈で、作品に対する否定的な評価ではないがホラー耐性の低い視聴者にとっては、それだけで鑑賞をためらう理由になり得る。グロテスクな変貌を描く過程には生理的嫌悪を感じさせる要素が多く、単純に“怖いのが苦手”という視聴者には向かない。
細かい点をいえば、演技と特殊メイクの力によって強烈に描写される主人公セス(ジェフ・ゴールドブラム)の変貌が、ホラー演出としての即効性を優先したように見えるためSF的側面を期待した視聴者には違和感を与える可能性がある。
クライマックスの展開についても、明確なカタルシスを求める視聴者にとっては、結末の余韻が重すぎるかもしれない。万人向けとは言いがたい作品である。
こぼれ話
『ザ・フライ』の制作には、意外な裏話やユニークなエピソードが多く存在する。まず、主演のジェフ・ゴールドブラムとジーナ・デイヴィスは、本作の撮影当時、実生活でも恋人同士だった。そのため、劇中の二人の親密なシーンには自然な雰囲気が漂っている。しかし、撮影現場では、ゴールドブラムが役にのめり込みすぎたため、デイヴィスが「変異したセスのメイクを見たくない」と感じることもあったという。結果的に、二人は本作の後に結婚したが、1990年には離婚している。
また、本作の監督はデヴィッド・クローネンバーグだが、実は当初、ホラー映画『エルム街の悪夢』のウェス・クレイヴンや、『遊星からの物体X』のジョン・カーペンターも候補に挙がっていた。しかし、最終的にクローネンバーグが選ばれたことで、ホラーとドラマを融合させた独特の作風に仕上がった。ちなみに、クローネンバーグは劇中に医師役としてカメオ出演しており、ヴェロニカが悪夢の中で診察を受けるシーンに登場しているので、気になる人は探してみるのも面白い。
特殊メイクを担当したクリス・ウェイラスは、本作でアカデミー賞メイクアップ賞を受賞しているが、撮影時はジェフ・ゴールドブラムが長時間にわたってメイクを施されることに苦労したという。特に、セスが中盤から徐々に変異していく過程を表現するために、6段階の異なるメイクが用意されており、撮影のたびに数時間をかけて施された。その結果、ゴールドブラムは「撮影の合間にはストローでしか飲めなかった」と冗談交じりに語っている。
本作の代表的なセリフ「昆虫には政治はない(Insects don’t have politics)」は、クローネンバーグが執筆したオリジナルの脚本にはなかったもので、撮影中に追加されたものだという。このセリフはセス・ブランドルの変異が進み、「人間らしい倫理観を失っていく」ことを象徴するものとして、映画のテーマをより深める重要な要素となった。
そして、『ザ・フライ』の大ヒットを受けて、1990年には続編『ザ・フライ2』が制作されたが、クローネンバーグは一切関与していない。また、近年では新たなリメイク企画が何度か浮上しているものの、いまだ実現には至っていない。クローネンバーグ自身は本作について、「純粋なホラーというよりも、愛と喪失を描いた悲劇だ」と語っており、単なるモンスター映画とは異なるアプローチであることを強調している。
ホラー映画としても名作だが、実は「悲劇的なラブストーリー」としても成立している本作。観るたびに新たな視点が生まれるのも、『ザ・フライ』が今なお語り継がれる理由のひとつだろう。
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